“オフィスが真っ暗だったので、誰もいないのかなー?と思って電気つけたら若い男女が…!!
社内恋愛を目撃してしまったかも…と思って焦ってる、なう。”
— Twitter / ぴい (via otsune)
“教育関係の取材がある。
学生や若いサラリーマンたちにどうやってコミュニケーション能力をつけたらよろしいのかというテーマである。
別に起死回生の妙手というのはありませんとお答えする。
そう答えたら、片づかない顔をしていた。
誰でもすぐにできるような妙手があれば苦労はない。
コミュニケーション能力というは平たく言えば「生きる力」ということである。
そのようなものを汎用的教育プログラムとして「はいよ」とご提案することは誰にもできない。
ときどき「これさえやればコミュニケーション能力が一気に身につきます」というような「はいよ」本を書いている人がいるが、そういう本を書いている人を信用してはならない。
「信用できる人間」かそうでないかをみきわめるのは「生きる力」のもっとも基礎的なもののひとつであり、このような本を手にとってふらふらと買ってしまう人は、その一点においてすでに「生きる力」の伸びしろが少ないことが露呈してしまうのである。
人間の生きる力を高めるためには、長く、複雑なプロセスが必要であり、「それをひとつ即席で」という要請そのものが、生きる力を育てることを妨げているのである。
訊かれたって、日本の子どもたちが一気にコミュニケーションの達人になるような汎用性の高い教育プログラムがご提案できるはずもない。
繰り返し言っているように、ほんとうにたいせつな仕事は「雪かき」や「どぶさらい」のようなものである。
別に感謝もされないし、誰かに誇るものでもない。
「やらないとまずいよな」と思う人が自分の家の前から始める。
それだけのことである。”
— 内田樹の研究室 - 商品経済から贈与経済へ
“「合理的に思考する子どもたち」は、勉強するに先だって「どうして勉強しなくちゃいけないの?」というラディカルな問いを立てる。
「どうして義務教育を受けなくちゃいけないの?」「数学とか古典とか勉強すると、どういう『いいこと』があるの?」
平たく言えば、「勉強すると金になるの?」と訊いてくるのである(子どもにも多少の遠慮はあるので、そこまでストレートには訊かないが)。
残念ながら、このような問いには答えるわけにはゆかない。
つねづね申し上げているように、学校教育というのは、「そこでなぜ学ばなければならないかの理由を子どもたちは知らないが、大人たちは知っている」という「知の非対称性」に基づいて構造化されているからである。
「いいから黙って勉強しろ」というのが学校教育にかかわる大人たちの基本文である。
自分がなぜ学ばなければならないのか、その理由がうっすらとはわかるが完全にはわからないという「グレーゾーン」に子どもを置くのが学校教育の目的である。
そうすると、どういうわけだか知らないけれど、子どもの学力は向上することが経験的に知られているからである。
「学力」というのは「学ぶ力」のことである。
何を知っているかではない。
知識や情報や技芸のことではない。
「学びたい」という抑えがたい欲望のことである。
「学びたい」という欲望は、自分が何のために何を学んでいるのか「すこしわかりかけているのだが、全部はわからない」ときに亢進する。
だから、学校教育は「そういう状態」に子どもを置くためにもろもろの「仕掛け」を凝らしてきたのである。
何千年か子どもを育ててきた人類学的経験から、「こういうふうにすると、子どもは成熟する確率が高い」ということがわかったので、学校における諸制度を整えたのである。
残念ながら、現在の学校制度は「成熟の装置」としての社会的機能をほとんど失ってしまった。
教育行政も保護者も、もちろん子どもたち自身も、学校にそのような機能を期待してはいない。
今学校は「換金性の高い知識や情報や技能を習得する場」というふうに単純に理解されている。
そして、「換金性の高い知識や情報や技能」よりは「金そのもの」の方がさらに「換金性が高い」(だって金だから)ということに気づいた子どもたちは(誰でも気がつくが)、「勉強よりも金儲け」を優先させるようになり、「別に金なんか欲しくないし・・・」という非活動的なタイプの子どもたちは底なしの無為のうちに沈むことになった。
そんなふうにして、日本の子どもたちの学力は急降下で劣化したわけであるけれど、それは「学校教育の意味を経済合理性で説明したことの帰結」である。”
— 内田樹の研究室 - 学力テストについて (via yellowblog) (via inumoto) (via nurumayu) (via fatherion) (via error888) (via johnnychallenge) (via sudoko) (via nanospectives) (via masaka) (via ishibashi)
「ウッカリ者」が足りない
nakano:
shinobixx:
uowou:
ken1ymd:
いつの頃からか、家庭の中には子供が少なくなり、二人以下で一人っ子なんぞ当たり前になってきた。
その結果、兄弟が育つ過程で身に付く人格としてのキャラクターも一様なものになり、徐々に「十人十色」と言われるような多様性が歪化されてきたように思う。
「人は3人の子供を持って、やっと親になる」と聞いた。
腹を空かせた子に、右のお乳と左のお乳を。3人目は・・・
子を助けるとき、一人は父ちゃん一人は母ちゃんが、さてもう一人をどうしよう・・・
で、親の知恵が出る。
兄弟が子供たちの世界で育っていくうちに、その多くの場合、一番目は年長である故に「シッカリ」していき、二番目は上と下に目を配って「チャッカリ者」に、そして三番目が世の中の潤滑油として重要な役割を果たす「ウッカリ者」になっていく。
かつて熊さん八っつあんの頃、ある割合でいた「ウッカリ者」がいなくなり、世の中は「シッカリ者」と「チャッカリ者」とが大勢になり、どんどんギスギスした方向へと進んでいるように感じられるのは私の年のせいか?
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